【熱闘回顧’23】門司大翔館 vs 育徳館(選手権福岡大会2回戦)




令和5年7月7日。曇り空の下、光陵グリーンスタジアム(GS)では予定より15分早い午前8時45分に門司大翔館—育徳館の第一試合が始まった。両校にとって、この夏の初戦である。

第105回全国高校野球選手権福岡大会は初日から雨にたたられていた。開幕して6日間で22試合が順延。この日も昼前から高い確率で雨予報となっていたが、早々と中止が決まった久留米市野球場をのぞく4球場で予定より時間を早めて試合が始まった。

育徳館は前年夏、35年ぶりのベスト8入りを果たした。主力の多くは抜けたが春の大会は2勝。4~5月にかけて行われた福岡中央地区大会では準優勝を果たすなど、夏に向けて調子を上げていた。門司大翔館も前年夏は県大会に出場。春は初戦で敗れたものの4~5月の北九州市長杯ではベスト8入りしている。実績では育徳館が上だったが、接戦が予想された。

試合は育徳館が初回に3番二郎丸朝陽(3年)の右越え本塁打で先制すると、門司大翔館は4回表に一死満塁から8番宇津宮吏(3年)が三塁線を破って逆転した。

その後はゼロ行進が続く。門司大翔館の右腕・中村翔輝(3年)はスライダーが冴え、2回以降は1本のヒットも許さなかった。育徳館の右サイドハンド・馬場亮汰(3年)も再三ピンチを招きながら得点を与えず、1点差のまま試合は終盤に入った。

▼2回戦(7月7日/光陵グリーンスタジアム)
門司大翔館 000 200 00 =2
育徳館   100 000 00 =1

予報より早く3回裏が始まる頃には雨が落ち始めた。試合に影響を与えるほどの雨量ではなかったが8回裏になると雨脚が強くなる。9回表、本降りとなった中でマウンドに上がった馬場はこの回だけで押し出しを含む3つの死球を与え、門司大翔館のリードは2点に広がった。

グラウンド一面に水が浮く状態で迎えた9回裏、二死一塁から二郎丸が右翼ライン際に放った飛球は、門司大翔館の跡田真太郎(2年)が伸ばしたグラブの先をかすめて芝生の上に落ちた。一塁走者が生還し、なおも二死三塁。一打同点の場面で左打席に4番・信濃勇太(3年)が向かう。

ここで大会本部席から球審に声が掛かり、試合が止められた。球審は門司大翔館の選手にベンチに入るよう指示を出す。「流れもきていたし、気持ちも入っていた」という信濃は「まだやれます、やりましょう」と本部席に向かってアピールしたが、受け入れられない。諦めきれないようにしばらくその場に立ち尽くした信濃は、天を仰いでゆっくりとベンチに下がった。

試合続行が断念されたのは、その37分後。継続試合は翌日の第一試合に組み込まれた。

▼2回戦(7月7日/光陵グリーンスタジアム)
門司大翔館 000 200 001=3
育徳館   100 000 001=2
〔9回裏二死三塁、継続試合〕

門司大翔館の監督は戸畑から鳴門教育大に進み、稲築志耕館を経て6年前から指揮をとる松本大輔(43)。「門司から甲子園に」と情熱を燃やす松本の存在は地元で知られるようになり、部員も少しずつ集まるようになっていた。前年夏には学校として初めて県大会に出場。私立に勝つためにどのような戦い方が必要か、試行錯誤を繰り返しながらチーム力をつけてきた。

両校は6月に練習試合を行い、この時は育徳館が勝っている。それでも松本は「すごくいい打者だと思った」という信濃を抑えることができれば、十分に勝負になると感じた。夏の大会での対戦が決まると「信濃に対しては四球を恐れず厳しく攻める」ことをバッテリーに徹底させた。その結果、信濃の3打席は一ゴロ、四球、死球。ここまではプラン通りだった。

ただ、雨の中で9回を投げ抜いた中村に無理はさせられない。継続試合では背番号10の公文活樹(3年)の登板を予定していた。ところが翌日も雨。次の日も順延となり、松本に迷いが生じた。

中村のスライダーに対して公文のカーブ、フォークという縦の変化球は目先を変えることができる反面、暴投やパスボールの危険も伴う。順延が続いたことで疲労が回復してきた中村の続投も頭をよぎった。なにしろ中村は二郎丸以外にヒットを許していないのだ。信濃とは無理に勝負をせず、歩かせてもよい。

しかし公文も春の大会まで背番号1をつけていた男だ。中村にエースの座を譲り「死ぬほど悔しかった」という気持ちも分かるだけに、彼にもチャンスを与えたい。

迷った末に、松本は公文への継投を決断する。ただし、投げるのは信濃一人だけ。中村はセンターにまわし、信濃が出塁すればマウンドに戻すつもりでいた。その場合、外野には控えの選手を出すことになる。選手層が厚いとはいえない門司大翔館にとって守備力の低下を招くことになるが、松本は腹をくくった。

投手を代える以上、歩かせる選択肢もない。信濃ただ一人を打ち取るために、公文はマウンドに上がることになった。

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誰を投げさせるか。誰と勝負するか。いくつか選択肢があった門司大翔館に対し、育徳館は打てる手がほとんどなかった。二死三塁で打席には4番。打つしかない。

信濃は身長180センチ超の大型打者だ。この年の春まで同校でコーチ・監督を務めた今村圭佑の指導の下、身体の使い方、バットの出し方など打撃理論を学び、その動きを練習で体に叩きこんだ。上級生の助言にヒントを得て打球に角度が出るようになった2年の春以降は、飛距離も伸びた。夏は6番打者としてベスト8進出に貢献。新チームでは不動の4番打者となった。

継続試合でどちらの投手がくるか。実際のところ信濃はそこまで気にしていなかった。ただ、狙うのは直球と決めていた。ヒットこそ出ていないが中村の球は「見えていた」し、落ちる球のある公文もどこかで直球を投げてくるはずだ。その直球を右中間に打ち返すイメージを頭の中で繰り返した。

試合を待つ時間が長かったことは精神的にこたえた。雨が続く中でも学校で体を動かし練習後は仲間と談笑したが、それでも一人になると試合のことを考えてしまう。弱気になる自分を、大丈夫だと励ます。余計なことを考えないよう、眠ってしまおうと目を閉じる。そんな中で先輩や友人、恩師たちからのメッセージが気を紛らわせてくれた。「お前ならやれる」「何とかなる」。その気遣いが身に沁みた。

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育徳館の監督・井生(いおう)広大(32)は令和4年春に同校に赴任して野球部の副部長を務め、この春に異動となった今村のあとを受けて監督に就任した。小倉から明治学院大に進み、プロ野球独立リーグの徳島インディゴソックスなどでプロ入りをうかがった井生だが、高校野球の監督に就くのはこれが初めて。その最初の夏の大会で、いきなり継続試合を経験することになった。

練習試合で門司大翔館と対戦し「監督の指示が徹底され一丸となって勝利を目指してくるチーム」だと感じていた井生は、その時の印象から「継続試合では投手を代えてくる」と予想していた。ただ、信濃には多くを語らなかった。「自分が彼の立場なら」と考えたとき、細かな指示を出すことはプレッシャーになると思った。何よりも、チームの命運を一身に背負う信濃に掛ける言葉は見当たらなかった。

9日の順延が決まった後、会場が筑豊緑地野球場に変更されると連絡が入った。人工芝球場である筑豊緑地ならゴロを転がせば球足が速くなり、叩きつければ高く跳ねて内野安打の可能性もある。そこに一縷の望みを抱いたが翌日も雨天順延となり、それも叶わなかった。「最後は、選手たちを信じることしかできなかった」。新人監督は振り続ける雨の中で、野球の、そして監督の難しさを噛みしめていた。

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9回裏二死三塁 信濃は一ゴロに倒れ試合終了となる

7月11日。勝負のときがやってきた。試合前、育徳館はタイブレークの無死一、二塁を想定してシートノック行った。「必ず追い付いてタイブレークに持ち込む」という気概を見せることで、相手にプレッシャーをかける意味もあった。

門司大翔館バッテリーが選んだのは変化球勝負だった。信濃は6月の練習試合で公文の直球を三振している。その直球の残像が残っているのではないか…と考えての選択だった。

門司大翔館の選手が守備に散り、まっさらなマウンドに公文が立つ。信濃はただ、自分のスイングをすることだけを考えて打席に入った。初球のフォークはワンバウンドになった。2球目はカーブでストライク。3球目のフォークは再びワンバウンドでカウントは2-1。

バッティングカウントとなり、信濃は次の球に勝負をかけた。狙いは直球。多少ボール気味でもスイングをかけていく。四球でつなぐことは頭になかった。次打者の5番・田原碧人(2年)がこの3日間、そしてこの日もずっと緊張している姿を目の当たりにしてきた。何としても4番の自分が同点にする。

4球目はカーブだった。気負いが力みにつながったのかもしれない。引っかけた打球はファーストゴロとなり、5日間にわたる試合が終わった。

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3回戦に進み九州国際大付と対戦した門司大翔館は5回コールドで敗れた。「育徳館に勝って、選手はどこか満足したところがあったと思う」と松本。さらに上を目指すべく、この冬も部員たちと精進を重ねる。

育徳館は、信濃の最後の打席をネクストバッターズサークルで見守った田原が4番を受け継いだ。秋の大会で2勝し、1年生は福岡中央地区の1年生大会を制した。大学でも野球を続ける信濃は、そんな後輩たちに交じってグラウンドで汗を流す。次のステージで目指すのは「大事なところで一本打てるバッター」だ。(文中敬称略)

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