「夏の福岡代表校を振り返る」シリーズは、いまようやく昭和10年にたどり着こうとしています。平成の世まではまだまだですね…。ああ、遥かなる道のり。
さて、シリーズでは、ちょうどいま小倉工の全盛期のころを書いています。何しろ昭和5年から12年までの8年間で12回の甲子園出場。言葉で言っても今一つピンと来ない方のために表にしてみました。どうでしょう。その独占ぶりがリアルに分かってもらえると思います。いや~凄まじいですね。
昭和5 | 昭和6 | 昭和7 | 昭和8 | 昭和9 | 昭和10 | 昭和11 | 昭和12 | |
春 | 小倉工 | 小倉工 | 長崎商 | 小倉工 | 小倉工 | 小倉工 | 小倉工、福岡工 | |
夏 | 小倉工 | 小倉工 | 小倉工 | 佐賀師範 | 小倉工 | 佐賀商 | 小倉工 | 福岡工 |
主軸打者 投手 |
新富 植田 |
新富 植田 |
新富 酒井 |
大石 酒井 |
玉井 玉井 |
玉井 玉井 |
玉井 竹中 |
さて、では何故に小倉工はここまで強くなったのでしょうか。その歴史をひも解き、背景を探ってみました。
小倉工野球部の創部は大正9(1920)年。創部にはOBの高谷実氏の尽力がありました。野球好きの高谷氏は在学時、同級生らとともに同好会的なものを結成して試合をしていましたが、本格的な部を創設しようと東奔西走します。まず、校長と折衝して一年間60円の部費を獲得。さらに卒業生に呼びかけ130円を集めました。これでボール1ダース、ネットなど道具一式を寄付します。グローブが7~8円、ミットが12~13円、ボールが1円40銭の時代です。その年、明治専門学校(現九州工業大)主催の近県中等野球大会に出場したのが、野球部の初陣でした。
◆「専用グラウンド」に恵まれた小倉工
ここで二人目のキーマンである井上幾次郎氏が登場します。井上氏は大正11年(12年?)2月に満鉄を辞めて小倉工に着任します。野球に関してはずぶの素人。ノックもままならなかったそうです。しかも工業学校では、学科と実習にまたがる教科課程が詰まっているためクラブ活動などに向けられる時間的余裕がありません。さらに旧制中学、商業学校などより在学年数が一年短く、定員も1学年120名だったため全校生徒は400名前後、これは中学や商業学校の半分にも満たない生徒数でした。つまり、そもそもの生徒数が少ないうえ、優秀な選手がいても入れ替わりが早い。そのため、工業学校と名のつく学校に運動競技が盛んになるはずがない、というのが当に比べて時の常識でした。
そういう逆境にあって、井上氏がまずしたことは、野球に興味を持っていなかった校長を味方にすることが強くなる最短距離と考えて校長を野球好きにすることでした。そのためいろいろと接触を図り、誘導し、ついには校長を野球好きにしてしまいます。
次に宝塚運動協会(大日本東京野球倶楽部創設前にあった当時のプロ野球球団)に当時在籍していた片岡勝氏が、当時小倉に置かれていた歩兵第14連隊に入隊しており、指導を願い出ます。
さらに宝塚運動協会の本拠であり、中等野球でも和歌山中や甲陽中、関西学院、神戸一中などの優勝校を輩出した野球の本場・関西地方の学校との「対外試合」が強くなるためには必要と考えました。そこで、野球部員を修学旅行団に同行させての遠征(!)を職員会議に諮り、何とかこれを承認してもらい、宝塚運動協会の本拠地・宝塚球場に5日間宿泊しながら北野中、豊中中、関西学院と試合を行い全勝します。
大正12年には到津球場(第二次世界大戦中に廃止されたそうです)が完成。経緯は不明ですが、この到津球場と小倉練兵場で存分に練習ができたようで、この環境も同校躍進の一つといえそうです。到津球場は鉄道省門司鉄道局の所有。門司鉄道局の野球部が使用していたようですが、中等野球の地方の小規模大会(近県大会)やリーグ戦も行われていたようです。場所は国道3号戸畑バイパス沿いの「はるやま」「アクロスプラザいとうづ」などが建っている一帯にあたります。小倉工から1.3キロ程度の距離ですから、歩いても十分通える場所に「専用グランド」があったことになります。
これは例えば、隣の佐賀県では戦後になっても本格的な野球場がなく(スタンド付きの市営球場ができたのが昭和34年)、地区大会でさえ各校グラウンドで開いていたのに比べても大きな違いです。
昭和4年の第15回大会には北九州大会では準々決勝まで勝ち上がるものの、優勝した佐賀中に1-4で敗退。そして翌年の第16回大会で強打者・新富、エース・植田らを擁して遂に優勝、甲子園の土を踏んだのです。その後、春夏通じて12回目の出場となった昭和14年のセンバツを最後に、同年10月に退任。小倉工の第一次黄金期は幕を下ろしたのです。
※参考文献:「小倉工業 創立70年史」「高校野球風土記」
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