夏の福岡代表校を振り返る⑥(県勢不在の空白期)




 第5回選手権大会(大正8年)に小倉中、第7回大会(同10年)で豊国中がそれぞれベスト4に進出した福岡県勢だが、ここからは”暗黒時代”とも言うべき時代に入っていく。

 第8回大会(同11年)では九州大会で佐賀中に優勝をさらわれると、翌年には当時の福岡県知事が野球を含むすべてのスポーツについて県外に出ての対外試合を禁止。第9回大会(同12年)~第12回大会(同15年)まで九州大会への出場が見送られることになった。この間、九州大会では佐賀中が第8回大会から3連覇、そして第11回、第12回は長崎商が連覇を果たす。


 全国大会も第10回大会からは甲子園球場に舞台を移し、第11回大会からは九州大会が南北に分離される。また、大正13年には全国選抜中等学校野球大会(現全国選抜高校野球大会)がスタートするなど、福岡県が「鎖国」状態となっている間に、中等野球情勢は大きな変化を遂げていた。

 第13回大会(昭和2年)になって県勢は5年ぶりに北九州大会へ復帰。大会は福岡市郊外に新設された春日原球場(戦後解体され現存せず)で行われ、福岡に球音が戻ってきた。だが県勢不在の間に力をつけた佐賀中学から、第15回大会まで3年連続して北九州代表の座が奪還できなかった。大正末期から昭和初期にかけてのこの期間、福岡県勢は全国大会から8年間遠ざかる空白の時代となった。

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