学生野球資格を回復した元プロ野球選手たち④




 学生野球資格を回復した元プロ野球選手(のうち福岡県高野連に学生野球指導登録届を提出した元福岡県の高校球児)の最終回。今回はプロ野球選手としての試合出場の実績がないながらも、福岡で野球の指導などで活躍されているお二人です。

【石井 裕】(西南学院→ロッテ)
 西南学院中時代に投手として頭角を現し強豪私立高に進みますが、体質に合わず西南学院高に転入。細かな制球力より球威で打ち取る力投型で3年次(昭和57年)の夏の大会では3試合で4点しか許さず、同校を初の県大会に導きました。
 高校卒業後はプロ野球選手を目指して巨人、広島の入団テストを受けて見事合格します。巨人への入団を希望するも事情があって入団叶わず日体大に進学。しかしそこで肩痛に悩まされ結局、大学を中退してしまいます。再起を図り再びプロ入団テストを受け、ロッテにドラフト外で入団したのが昭和59年のことでした。
 しかし肩の痛みには勝てずその年の暮れに退団。プロ野球生活はわずか1シーズンで終わりを告げました。その後、ビジネスマンとして第二の人生を送る傍ら、地元福岡で少年野球の指導、社会人クラブチームのコーチなどを務めてきました。また、自らの故障の経験をもとに、故障を防ぐ共通動作についてまとめた野球トレーニング本も出版するなど、理論派としても知られます。

【太田浩喜】(クラウンライター→西武)
 太田氏は正確に言えば「福岡県の高校野球部出身の元プロ野球選手」ではありません。中学3年生のとき、当時福岡に本拠を置いていたクラウンライター・ライオンズが「将来の卵」の獲得・育成を目指して実施した入団テストを受けて合格、中学卒業と同時に昭和53年、練習生としてライオンズの一員となりました。筑紫丘高定時制に通いながら練習に参加しますが、プロ契約をしていないため2軍の試合にも出られません。やがて翌54年にライオンズが西武に買収されると所沢高定時制に転校、引き続き2軍の選手に混じって練習を続けますが、プロ契約を結ぶことなく高校卒業と同時に退団してしまいます(そのあたりの経緯はノンフィクションライター・長谷川晶一氏のブログに詳しいです)。
 福岡に戻って大学を卒業すると、ビジネスマンとしての生活を送るかたわら少年野球などへの指導も行ってきました。

 一軍の試合に出場して活躍するだけがプロ野球選手ではありません。故障しないための体づくりや練習方法。挫折や失敗。そうしたこともまた、多くの若き球児たちに伝えてほしいと願ってやみません。

 次回のエントリーでは、春季高校野球大会の組み合わせ(が決定しているでしょうから)について触れられると思います。

 

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