夏の福岡代表校を振り返る⑫(第23回大会・福岡工)~福岡工が初の甲子園へ




1937年(昭和12年) 第23回選手権大会/福岡工(初出場)  優勝=中京商(愛知)④
 

 第16回大会(昭和5年)から続く小倉工の独占時代に風穴を開けたのは福岡工だった。
 昭和8年に野球部後援会が創設され、これを機に始まっていた野球部強化活動により、近隣の高等小学校から有望な若者たちが多く入学。大学で活躍していたコーチを複数招き、急激に力をつけた福岡工は、前年(第22回大会)夏の北九州大会では決勝まで進んむ。惜しくも小倉工に敗れ悲願はならなかったものの、この年のセンバツに選ばれて初めて甲子園の土を踏んだ。

 そして迎えた夏の北九州大会。センバツ出場に同時出場した小倉工が初戦で敗れる波乱の中、危なげなく勝ち進み、初の夏の甲子園切符を勝ち取った。エースの喜多富夫は速球を武器に、2次予選3試合(準々決勝・準決勝・決勝)で与えたヒットがわずかに2本。完ぺきな投球を見せた。打線は後にプロ入り(金鯱→西鉄)する上野義秋が中心だったが、低学年のメンバーが中心だったこともあり迫力にはやや欠けた。

 初戦となった2回戦の対戦相手・北海中はこの大会で12回目の出場を誇る古豪。
 初回の福岡工は緊張からかミスが連続して先制を許した。喜多投手が四球で無死の走者を許すと、三ゴロの時にセカンドの二塁カバーが遅れてしまい送球できずに無死一、二塁。さらに一塁前の送りバントを再びセカンドが一塁へのカバーを忘れて無死満塁。続く4番・大橋に対してスクイズ警戒のために投じたウエスト気味の緩球を右前にはじき返されて1点を失ったが、北海中にも走塁ミスが出て、最小失点で切り抜けた。
 すると2回、四球で出た喜多を置いて大崎が二塁打を放ってすかさず同点。その後も押し気味に試合を進めたが、6回に浴びた菊地の右翼線2塁打が決勝点となった。
 福岡工打線は6四死球、4安打を放ったが、決定打を欠き10残塁。6回の攻撃の際、バントで右手を負傷して退いた塩田からマウンドを引き継いだ北海中・大橋が踏ん張った。

 それでもこの試合で経験を積んだ若きメンバーたちが、福岡工の黄金期を築いていくことになる。


▶福岡県の甲子園成績

 

◇2回戦
     一二三四五六七八九 計HE
福 岡 工 0 1 0 0 0 0 0 0 0  1 4 1

北 海 中 1 0 0 0 0 1 0 0 x  2 2 1
<二>大崎2、菊地
【福岡工】 打安 【北海中】 打安
7 鍋 山 20 7 安 藤 30
4 鹿 毛 40 9 洞 野 20
3 上 野 40 8 若 杉 30
1 喜 多 30 5⑴大 橋 31
8 大 崎 32 1 塩 田 20
6 竹 島 41 H 東 島 10
5  原  30 ⑸  林  10
H 佐 藤 10 2 白 石 20
9 馬 場 20 3 菊 地 31
⑼ 竹 吉 10 4 谷 口 20
2 甲 木 41 6 武 井 20   

振四犠盗残  31 4 振四犠盗残  24 2
370310    10 6216

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